『オクニョ運命の女(ひと)』を楽しんでもらう為に少しだけ歴史のご紹介をします。意外に知っている様で知らないですよね。ドラマをたくさん観ていると、同じ名前を前にも見たけど誰だっけ?という事が頻繁に起こります。今日は少し頭の中を整理しましょう! |
『オクニョ運命の女(ひと)』相関図
『オクニョ運命の女(ひと)』歴史プチ情報!
オクニョ運命の女(ひと)〜相関図と10倍楽しくなる歴史プチ情報その①!
イ・ビョンフン監督の作品は歴史上実在した人物を自分なりの解釈で演出して来ましたが、『オクニョ』は初めて架空の主人公で、しかも時代劇初の外知部(弁護士)制度にスポットを当てたドラマです。
実在人物も勿論たくさんいて、13代王明宗(ミョンジョン)文定大妃(ムンジョンテビ)、ユン・ウォニョン、チョン・ナンジョンがそうです。
他にも商団のコン・ジェミョン、博学者のイ・ジハム、詐欺師のチョン・ウチ・妓楼の主人ファン・ギョハなども実在していたそうですが・・・。
今回は「涙の王」明宗ミョンジョンと周りを囲む周辺人物についての歴史プチ情報です!
12代仁宗(インジョン)王とは?
12代国王の仁宗(インジョン)は11代国王の中宗(チュンジョン)の2番目の妻、章敬王后の息子で中宗亡き後1544年に即位しましたが、朝鮮王朝最短の9ヶ月の在位期間で亡くなります。
話は少し戻り、章敬王后は仁宗を生んだ後に産褥ですぐ亡くなってしまい、仁宗は継母のムンジョン王后に育てられました。意地悪で猜疑心の強い継母の元で苦労しましたが、とても静かで優しい性格だったようです。
ムンジョン・ウォニョン一派と実母の兄(叔父)一派の激しい権力闘争の中、父親の中宗亡き後に即位しましたが、即位後に推し進めた政策がムンジョン・ウォニョン姉弟を警戒させました。
「乙巳士禍」(いっししか)
そこでまた登場するのが仁宗の叔父です。この叔父が中心人物の「大尹派」とウォニョンが中心の「小尹派」で、派閥争いが激化する中、仁宗が逝去後1545年に「乙巳士禍」事件が起こります。ムンジョン王后の後ろ盾の元、ウォニョンは邪魔者を粛清して権勢を振るいました。
母親の「垂簾聴政」(すいれんちょうせい)
ミョンジョンは11代国王の中宗(チュンジョン)と3番目の妻ムンジョン王后の一人息子です。ムンジョンには5人の子供がいましたが、息子はミョンジョンだけでした。
余りに早い不可思議な仁宗の死後に、1545年13代国王としてわずか11歳で即位した明宗(ミョンジョン)は、大妃となった母ムンジョンが実権を握り、弟ウォニョン、その妻で朝鮮3大悪女チョン・ナンジョンの3人の結託した専横政治に泣かされました。
即位して8年間は母親の「垂簾聴政」で無理難題を押し付けられ苦労していましたが、『オクニョ』はちょうどその頃のお話になります。
豊臣秀吉の「朝鮮征伐」
ミョンジョンは跡継ぎがいなくて、庶兄の徳興大院君の子供が14代国王宣祖(ソンジョ)となり、血筋はここで断絶しました。
因みに、宣祖(ソンジョ)は1592年の朝鮮名「壬辰倭乱」、日本では「文禄の役」「朝鮮征伐」と呼ばれている豊臣秀吉が晩年に行った侵略戦争の時の国王です。
まとめ
ドラマはまだ先が長くてネタバレになってしまうかもしれませんが、ミョンジョンほど母親の死を待ち望んだ王はいなかったかもしれないですね。
しかし、ムンジョン大妃が死去してたった2年後の33歳でこの世を去ります。母親に苦しめられたストレスで早世したとも言われてます。
なので・・・ドラマの最後に登場人物のその後が描かれるのですが、1年後しか表現出来なかったんですね。
時代劇はいつも激しい権力争いと酷い事実、その中で逞しく生きる主人公が描かれることが多いですが、この『オクニョ』もそんな時代に翻弄されながら自分の生き様を見つけて行くサクセスストーリーです!